PROFILE 

 

明治30年(1897) 3月30日
東京市芝区麻布本村町(現在の南麻布)に生まれる。当時の麻布本村町は、大きな華族屋敷が並び家は、街路に面し、隣は、酒屋、向かいは、お寺の釣鐘などを鋳る鋳物師の家であった。家には、三間四方か四間四方の、小さな庭があり、ざくろが茂っていた。父十三郎32歳、母ヨシ38歳。姉タミの他、後に弟三人妹一人ができた。ヨシは 新発田藩主席家老の一人娘。十三郎は養子で、新発田より県費で選ばれて 東京に留学したが、学業を放棄し政治運動を行った。同輩には、足尾銅山を興した古河市兵衛、昆田文次郎がいた。 十三郎は、やがて大倉喜八郎の大倉組に入り、台湾が日本に帰すると、後藤新平に推されて台湾開発事業に従い、賀田組の総支配人となったため、
麻布本村町の家には、一年に一度しか帰国しなかった。茂は幼少期、虚弱で若い女中(土屋さだ)が、主人に秘めて十年も、肉断ちをして神に祈りながら育てた。 
明治34年(1901)4歲
父の勤務先であった台北市に、母、姉とともに行き、西南門街の幼稚園に通う。
明治35年(1902)5歳
4月、学齢前であったが台北小学校に入学させられる。
明治36年(1903) 6歲
2年生になると慢性結核性リンパ腺炎が出たため、内地に帰るように医師から勧められる。
明治37年(1904)7歲
パルチック艦隊が来るというので婦女子の総引き揚げ命令が出たた め、10月、父を残し、最後の引き揚げ船で一家3人内地に戻った。 目黒に本宅が出来るまで、東京市芝区白金志田町に借家住い。芝白金小学校に入る。軍人の子弟が多い学校で、歩いて30分かかる距離にあった。
明治38年(1905)8歲
7月、慢性結核性リンパ腺炎の手術のため、順天堂病院に入院。
明治39年(1906)9歳
芝高輪教会にて、姉とともにキリスト教の洗礼を受ける。
明治40年(1907)10歳
十三郎は日露戦争が終るとすぐ、後藤新平の後押しを得、朝鮮開発に着手した。 目黒の家が出来る。目黒の家には家族の他に姉の学友、書生、女中 二人など大人数が暮らしていたため、普通の風呂釜では間に合わず、 大きな風呂釜を作りに鋳掛屋が通って来たが、茂はその仕事を見て板金技術を会得し、真鍮で出来ていた台所用品の修理をするなど器用であった。 邸内には畑もあったが、ここの地質が野菜作りには不向きであったため、花壇にすることになり、茂に委ねられた。これが見事な出来栄えで、茂は花造りに自信を得た。
明治41年(1908)11歳
学校で中学進学者は予習のため残されることになったが、茂は 飼っていた名古屋コーチン3羽の世話もしなければならず、中学へは行かず小僧になることが決まっているという口実で予習を受けなかった。
明治42年(1909)12歲
4月、麻布中学入学。試験の結果、主席で入ったと思っていたらB 組7席であったため、不正が行なわれたと考え、1学期の試験は理科以外全部自紙で提出した。後に判ったことでは、上席の者は小学校卒ではなかったという。図画と理科は良い成績であった。当時について茂は、「その当時でもいい中学といわれたのは府立一中と私立麻布中学でした。家では麻布中学を受けろといいます。それで私は受験しましたが、首席ではいると思っていましたのに、発表をみると、全部できたと信じていたのにB組七番です。ゆびを折ると私は全級で二十番目です。これは私のプライドを、ひどく傷つけました。そこで、よしそんなら、びりから一番になってやるぞっと決心しました。決心が、正確に的を射ました。一年生の一学期末の成績は、どんじりでした。だが、家では心配するし、私も落第してもつまらないと思い、一年生の終わりには中位にしました。」語った。
 
明治43年(1910)13歳
身体の具合が悪く、欠席日数が多くなる。 日黒の家に後藤新平の世話で新しい書生が来た。彼は後に新平の雑誌『東洋』の編集長となって、長い間茂に『東洋』を送ってくれた。 この雑誌は大変に親支那的なもので、茂はこれに依って支那哲学を教えられたという。 姉民は、実践女学校卒業後まもなく朝鮮の方へ嫁いだ。 2学期の試験中暴熱型の重い結核を引起す。半月経っても高熱が出、 医師の勧めで逗子に転地する。
大正元年(1912)15歲
冬、房州館山(現在の千葉県館山市)に移り、家が建つまでの半年間、 公園内の大道館という村の集会場を借りて過した。 父に鶏でも飼って遊んでいろと言われ、家と鶏舎が出来るまで、以前覚えた板金技術を役立てて孵卵器(熱源ランプ)を作った。これは 非常に性能の良い物で、茂が廃業した後も同業者の間を転々と渡り、 10年以上稼働していた。鶏は、子供の園丁を一人置き、約二千羽程 飼っていたが3年目でやめた。その後は魚釣りと密猟で暮らした。 外見は非常に健康そうになったが、相変らず毎午後に発熱していた。野鍛治を自得し、ふいごも自製した。この頃、偶然入手した幸徳秋水の『社会主義真髄』を読み、いつま でも金持ちのお坊ちゃんが続くものではない事を知り、独学で猛勉強を始めた。鷹の島水産講習実験場場長神谷尚志より自然科学を学 び、ベルグソン、タゴールなどに夢中になる。また、ベートーヴェンに心酔する。
 
当時について別の記述では、【胸を患った茂は、世の中をあきらめた気もちになって、のんきに、花壇をつくって、美しい花を咲かせたり、川や海でつりをしたり、沖をながめたりして、暮らしましたが、十八歳頃より、自然に、疑問を抱くようになりました。
「いったい、この世に生まれてこのように、のらりくらりでいいものだろうか。病気だとはいえ、のんべんだらりと生きていていいのだろうか。」
 その頃、家にいるときは、レコードでクラシックを聞いていました。特ににベートーベンに心酔していました。ベートーベンをききながら、青木茂はどんなにもだえたことでしょう。
 そのときぴちんとしまった心の扉をたたく人たちがあらわれました。それは小笠原旅行中にであった画壇の異彩、横井弘三画伯たちでした。横井画伯は、当時、二科賞、あるいは平和博二等賞など受賞し、その気慨は天に冲していました。
 この人達と親しくなり、青木茂の心の中にある芸術の扉が、自然に開き始めたのでした。
「そうだ。私は芸術の道をすすんでいこう。絵もかきたい。しかし、私はメルヘン(童話)をかく。ベートーベンの音楽のような雄大なる構想のもとに、多彩な宝玉のひかりと花の香りを発散させよう。芸術の世界には、未踏の境地がのこされているはずだ。それを自分の手で開拓するのだ。」
 青年、青木茂は、こういう決意の火を、密かに胸の中に燃やし始めたとき、さらに、茂を励ます人が現れました。
 ひとりは詩人の山村暮鳥(1884―1924)です。暮鳥は童話『鉄の靴』あるいは詩集『雲』などを著わした詩人です。
 山村暮鳥も、胸を病んで、房州に転地療養中だったのです。そして、青木茂のうちへあそびに来られたのですが、そのとき青木茂は絵をかいていました。青木茂は大正七年に、今の春陽会の前身である日本美術院の展覧会に入選し、また、房州の北条に住んでおられた倉田白羊画伯にも属望されていたのです。暮鳥も、青木茂を、画家の卵だと聞いていました。ところが、絵も書きたいが、メルヘン(童話)が書きたいのが本心だと知らされると、驚いて、
「それでは、私の編集している童話の雑誌に何か書きませんか。」といって、童話雑誌「おとぎの世界」に紹介してくださいました。その作品は『詩人の夢』という童話で、これは初山滋画伯の挿絵がついて発表されました。暮鳥は青木茂の才能を愛し「若き日のダ・ビンチを見たり」という詩をつくり、青木茂とダ・ビンチをくらべて賞讃してくださいました。
 もうひとりは、中村有楽(昭和十九年十二月に亡くなりました)でした。この人は、明治の末ごろ「英文少年世界」や漫画雑誌「東京パック」、を発行していて、当時、名高いジャーナリストであり、漫画界そだての親ともいうべき人です。また、房州の海岸が大すきで、自分の編集する雑誌で房州を観光宣伝しました。
 中村有楽の弟は有名な京都の複製東洋美術の便利堂で有楽は、東洋の名画の複製をたくさん持っておられ、青木茂に、東洋芸術の心を教えてくださいました。
 それから、もうひとり。――この人は芸術の人ではありません。海洋生物学者として著名な故神谷尚志です。とうじ鷹ノ島実験所長でした。館山へ移って来た茂は、すぐ訪問して、いわば、自然科学のお弟子入りをしました。
『三太物語』の三太が、ときどき、こまっしゃくれて、自然科学をふりまわすのは、ここに源を発しているのです。(参照:新日本少年少女文学全集 山本和夫)】
大正4年(1915)18歲
8月、小笠原にでも行けば、病気が良くなるかもしれないと思って、 父島へ行く。19歳の冬まで滞在。 洋画家横井弘三と知り合う。
大正5年(1916)19歲
大島に油絵のスケッチに行き、火山の噴火を眺めてこれは文学の世界だと感じる。館山に戻るとすぐ「智と力兄弟の話」を書き始め る。 小型ョットを作る。美しいので、朝日新聞の全国版に紹介された。
 
当時について別の記述では、【茂は、海岸で、手製の美しいヨット「イソルダ号」を換ったり、また、アメリカ製の猟銃ウインチェスター十二連をにぎりしめて、初山滋をあいてにカモやウサギを追っかける文化的な生活をする反面、また、小笠原諸島の父島で知った帰化人の自足自給の生活をさぐったり、また、作品に骨身を削りつづけながら、化学の勉強で夜を徹するという日々でした。
 茂は、その当時を、感慨深気に回想して、こういいます。
「そのころ、私は知と力を構想中、夢中になりすぎて、便所を半焼させましたよ。」
 昔、中国のことわざに、物を考えるところは三か所あるといいました。
 一つは、枕の上(布団の中で眠らないでいるとき)。馬上(馬に乗って行くとき)。厠(便所)で。――この三か所です。青木先生は、この三か所のうち、「馬上」は「ヨットに乗って」と、変えたようですが、とにかく、中国の諺に従がい、ものを考えるときには便所を愛用したわけでありました。が、便所には、昔のこととて、電燈がついていなかったので、ロウソクに火をともしてありました。それを消し忘れ、燃えうつり、便所を半燃させたのです。(参照:新日本少年少女文学全集 山本和夫)】
大正7年(1918)21歳
秋、日本美術院展に大島の作品が入選する。
大正8年(1919)22歳
「智と力兄弟の話」を書き上げる。文章に音楽リズムがあると信じた茂は、原稿を山田耕筰に送った。耕筰から逢いたいという電報を 受け、面会の結果、耕筰は茂に助力を約束してくれた。
 
当時について別の記述では、【約二か年かかって、長編童話『知と力兄弟の話』も生まれました。それは大正八年のことです。 努力に努力を重ね、まったく骨身をけずって完成されたのですが、発表する宛てがありません。 が、青木茂は、ベートーベンに心酔していたから、お会いしたことはなかったのですが、親近感のふかい作曲家山田耕筰に送り届けました。 すると、非常に気に入られ、山田耕筰は、詩人の三木露風に紹介される。すると、露風は、それを小説家で、しかも新潮社の記者である水守亀之助にしめされました。 話は、その方々のお骨折りでとんとん拍子に進み、山田耕筰と三木露風の序文つきで新潮社から出版されました。それは大正九年十二月です。 この作品の生まれる前の年(大正七年)には、まず、暮鳥にすすめられて書いた『詩人の夢』を最初に、『たいくつ城』『地をつぐ国王の話』などがつくられています。だが、この作品は、いわば、長編であり、青木茂の出世作といえます。 ところで、この本が出版されて、しばらくしてからのことですが、東京の父十三郎から、会いたいと手紙がきました。何だろうと思って、出かけていくと、「おまえは、いったい、物など書いて、何するつもりか。」 とききます。説明のしようもないから、もじもじし、それから、思いきって、「私はつぎの世界の教科書を書きたいのです。」 と、答えました。すると、いきなり、十三郎は、「ばかやろうっ。」 と、どなりました。息子が物など書く、ぐうたら者になるのが心配だったようです。童話作家などにしたくなかったのです。 十三郎の不服については、さすがに、茂も頭をかきました。また、父の気持ちも、わからないではありませんが、分水嶺からながれだした芸術の雨水は、谷になり、川になり流れはじめています。流れ出したからには、海にまで流れていかねばなりません。『地下の涙』(大正九年)、『大名と狐』(大正十年)、それから、『赤い心臓のミイラの話』……、とその芸術の川は水量を増していきました。(参照:新日本少年少女文学全集 山本和夫)】
大正9年(1920)23歳
4月、「痩牛」を『金の船』に発表。 療養中で館山に来ていた山村暮鳥の紹介で『おとぎの世界』6月号 に「詩人の夢」を発表。その他「たいくつ城」、「地をつぐ国王の話」 などの作品も作った。 12月、水守亀之助の力添えで新潮社より『智と力兄弟の話』を出版。これが契機となって、近衛秀磨、土方与志などと交流が出来る。 種子採集をしていた合田弘一と知り合う。
大正10年(1921)24歳
姉タミが結核性腹膜炎で、九州大学病院にて死亡。医学に不信を抱き、 神田に下宿し8ケ月間に内科、外科、細菌学などの医学書を耽読する。この間に「赤い心臓のミイラ」を『中学生』に発表する。 9月、「真珠船」を『女学生』に、11月、「夢の蜜柑」を『女学生』 に発表。
 
当時について別の記述では、【『赤い心臓のミイラの話』については、説明がいります。この作者は、はじめは音楽に心酔し、それから絵に魅せられ、またどうじに、自然科学をとり入れて、自分の川を増量したのでありましたが、ここで社会科学の分野をも、水域にとり入れたのです。
 この作品は、「中学生」(研究社)という雑誌に、大正十年にのせたものですが、これは幸徳秋水(1871―1911)の『社会主義神随』を読んで、自分が「働かないで、生活を楽しんでいる。」ことを反省しはじめての、はじめての作品でした。
 この作品について、青木茂は、こう述懐しています。
「私のおやじはとても大きな家がすきで、城山公園の下(今は館山市の養老院になっている)に四十坪もある家をつくった。自分は当時、すでに幸徳秋水先生の『社会主義神随』を読んでいたので(この本で、はじめて社会思想にふれた思いだった)労せずして、こんな大きな家でくらし衣食することにたえがたい不安とはじを感じていた。この考えが、後に『赤い心臓のミイラの話』を書いた起因ともなった。」(参照:新日本少年少女文学全集 山本和夫)】
大正11年(1922)25歲
1月、「虫のお医者」を『赤い鳥』、3月、「琥珀の姫」を『女学生』 に発表。
大正12年(1923)26歲
関東大震災の翌日、救護班を組織し、負傷者を1日に百人程 手当した。その後、千葉医大から来た救護班に参加して外科手術なども行い、県庁から感謝状を受ける。
大正14年(1925)28歳
父が朝鮮より戻り、福島県原町の染・織(アニリンブラック)工場の社長になったため、茂も父の秘書として福島へ行く。化学が好きだということで染場付きとなり、化学薬品を扱い、新発見なども行った。有機科学を勉強する。1月前田フミと結婚。長女緑生まれる。
昭和元年(1926)29歲
このころ、染織工場の仕事を退職する。 5月、世田谷区深沢町で合田弘一の助言を得て農園を営む。温室作りなどに板金、野鍛治の経験が役立ち、農薬には化学知識が役立った。メロンの大敵、ウドンコ病と赤ダニに硫黒昇華器を作り、使用していたところ、合田弘一の勧めでパテントを取った。またこの頃、 石炭屋から、東京瓦斯でコークスの粉炭処理に困っているという を聞いて粉炭ボイラーを設計し使ったところ、温室の方は好成績で かなりの利益をあげた。東京瓦斯からは、ボイラーのスケッチに来た。
昭和2年(1927)30歲
1月長男駒之助生まれる。
昭和4年(1929)32歲
フミと離別。
昭和5年(1930)33歲
4月藤井みつと結婚。 神奈川県の農蚕学校から、見習い生2人が来た。夏に彼らの案内で、 道志川でキャンプをする。ここが後に「三太物語」の舞台となった。「童話文学」に昭和5年3月号『ヒグマの目の玉』、同6月号『提灯と釣鐘』、6年6月号『はだかの赤坊』、同8月号『走り出た太子』、同九月号『街にねむる太子』、同10月号『精霊の国の姫と老人』(童話劇)掲載 
昭和6年(1931)34歳
5月、『童話文学』の同人となる。その時の同人は石森延男、伊藤貴麿、酒井朝彦、渋沢青花、千葉省三、水谷まさる。 農園の助手達は兵隊に採られ、燃料の入手も不可能に近くなり、 鉄物全部を供出する。 この頃、駒沢町に住んでいた、溝之口総合病院院長野村次郎に頼ま れ、無医師町の医師代行として、患者を診ていた。当時はジフテリア、疫痢、チフスなどが次々に発生していた。6月東京電気炉会社に入り、電磁開閉器技術を担当する。
 
当時について別の記述では、【茂は、『三太物語』にとりかかる以前、児童文学の同人雑誌「童話文学」に拠って、その文学をみがきました。「童話文学」の創刊号は昭和三年七月一日発行で、表紙やカットは初山滋が描き、同人は千葉省三(本全集第二十八巻)酒井朝彦、北村寿夫、水谷まさるの四人でした。そのころ、同人の酒井朝彦が、研究社で「中学生」と「女学生」を編集しており、青木茂は「中学生」に作品を執筆するようになってから知りあい、ときどき「童話文学」に寄稿していましたが、昭和6年5月(第四巻第五号)から同人に加入しました。そのときには伊藤貴麿、渋沢青花、石森延男も新しく同人に加入していました。 (参照:新日本少年少女文学全集 山本和夫)】
昭和12年(1937)40歲
2月、『日本童話選集』(金の星社)に「狐と大名」を収録。
昭和17年(1943)45歳
6月、呉と中島に一手に炉を納めていた東京電気炉会社から、電磁開閉器の試作を頼まれる。試作品が合格したため、作品を納めて3日後に軍から疎開禁止命令を受ける。
昭和19年(1944)47歳
2月、『大空の鏡』を地平社から出版。 合田弘一の姉の洋裁教室を改造し、知人6人を集めて町工場を作った。6月、作品が技術院の八木院長に認められ、最高賞(甲賞)を受賞。次回も最高賞と並賞(乙賞)を受け、また工場の仲間も技術指導賞、発明協会賞などを受けた。父十三郎、80歳で伊東にて死去。
昭和20年(1945)48歲
終戦とほぼ同時に、父の財産を全部失う。 この年、深沢3丁目で大熱を出した人がいるというので、茂が診察 してみると胸部に一個小さな水泡があった。茂は天然痘と診断し、 隣近所一帯に種痘をさせた。これが東京都の天然痘患者第1号であった。
昭和21年(1946)49歲
7月、『大海の日笛』を地平社から出版。大佛次郎の推奨と野尻抱影の紹介で藤田圭雄来訪し、『赤とんぼ』の執筆を約し「田園都市」(創刊号)、「かっばの三太 」(8月号)、「三太と月世界」(11月号)などを発表。 この頃、海水の無菌濾過などの研究に従事する。
昭和23年(1948)51歲
一月、胃がんで母を失う。同月『大万化弧』を地平社から出版。『赤とんぼ』に「三太と子猫」( 三月号)、三太と野球(七月号)を発表。また、十月「腕白物語三太武勇伝』を光文社から出版。
昭和25年(1950)53歲
1月29日より、NHKラジオで「三太物語」の放送が始まる。 9月、『三太物語』(筒井敬介脚色·日本放送協会編)を昭和26 年にかけて、宝文館より四冊刊行。11月から「智と力兄弟の話」を改作増補の上『少年少女』に連載。
昭和26年(1951)54歲
1月2日NHKより年間所感放送。この年連続18か月の放送を終わる。この間GHQの絶大な支持があった。『時事新報』、『小学生朝日』に三太物語のシリーズを載せる。11月、『小説三太物語』を光文社から刊行。 5月5日日比谷公会堂にてNHKで公開演劇を上演。その他民芸、新児童劇団にて三太物語を公演。9月「三太物語」映画化。
昭和27年(1952)55歲
3月映画「花荻先生と三太」9月「三太と千代ノ山」公開。
昭和28年(1953)56歲
NHKでテレビドラマ三太物語の放送開始2月映画「三太頑張れッ!」公開。       静岡県立盲学校にて点字本出版。
昭和29年(1954)57歲
1月、河出書房の「日本児童文学全集」第11巻に『大海の口笛』 が収録される。
昭和30年(1955)58歲
1月、『三太の日記』を鶴書房より出版。
昭和32年(1957)60歳
この年もNHKラジオの第3回目の三太物語の放送あり。 4月、『笛のおじさん、こんにちは』を光文社から刊行。
昭和33年(1958)61歳
4月、ポプラ社の「新日本少年少女文学全集」に『青木茂集』が入る。『三太物語』が麦書房の「雨の日文庫」第9冊目に収録される。
 
当時について別の記述では、【『三太物語』が、正式に、世の中へ出たのは、戦後です。これは実業之日本社から発行された「赤とんぼ」(藤田圭雄編集)です。
 雑誌「赤とんぼ」を調べてみますと、執筆は、『田園都市(はなの都)』昭和二十一年四月創刊号。『かっぱ三太』八月号、『三太と月世界』十一月号。『狐のねがい』二十二年十二月号。『三太と子猫』二十三年三月号。『三太と野球』二十三年七月号。………
 そして、これがNHKの若いプランナー田中達夫氏の目にとまり(筒井敬介脚色・善田英夫演出)電波にのりはじめたのは、昭和二十五年一月二十九日です。はじめは日曜(週一回)で、「三太のうなぎそうどう」から始まりました。世の中はやんやです。――そこで、私たちが、新日本少年少女文学全集を編集するにあたり、今までに発表された大好評の『三太物語』を全部、収録しようとしました。ところが、茂から、
「いや、いや。三太は、どんどん新しい事件をおっぱじめています。さあさあ、新しい三太のニュースを、みんなに読んでもらってください。」
 と、どさりと部厚い原稿をわたしてくださいました。それで、今までに発表されたものは、少しにして、この全集には、新しい書きおろしをいただくことにしました。茂の今日の抱負は、こうです。
「これまでの三太は、雑誌や放送などの関係上、読み切り短編でした。けれど、全集に発表していただく新編は、画家とすれば大壁画にもあたる光栄のしごとです。力量いっぱいの作品をこそ、作家はのこしたい。すると長編ということになります。――日本のユーモア長編というと、江戸時代の二-三の物のほか見あたりません。それらの原作は、すぐれた作品でありますが、すこし座敷におきがたいものです。そんなことも、自分の闘志をもやし、新しく書きおろしました。」(参照:新日本少年少女文学全集 山本和夫)】
昭和34年(1959)62歲
館山市波左間海岸に転居。 3月、「新選日本児童文学1」小峰書店刊に『やせ牛』を収録。
昭和36年(1961)64歲
2月「三太物語」平凡社「世界名作全集」第50巻に収録される。3月フジテレビにて木曜19時より「三太物語」の連続ドラマが開始。(1年3か月放送)視聴率25.7%を記録。
昭和37年(1962)65歳
5月、講談社刊行の「少年少女世界文学全集」第六巻に『三太花荻先生の野球』が収録される。
昭和38年(1963)66歳
1月、大調和第2回美術展優秀賞を受ける。 9月、講談社刊「少年少女日本文学全集」第22巻に『三太うなぎ騒動』が収録される。
昭和40年(1965)68歳
8月、借成社の「新日本児童文学選」に書下し『三太物語湖水キャンプの巻』が入る。
昭和42年(1967)70歳
11月、日本文芸家協会より感謝状を受ける。
昭和43年(1968)71歳
12月、学習研究社の「少年少女学研文庫」に『三太物語』、続い て『三太の日記』(昭和44年8月)、『三太の夏休み』(昭和45年8 月)、『三太の湖水キャンプ』、『三太のテント旅行』(共に昭和47年7月)の5冊が収録される。
昭和49年(1974)77歳
6月、日本青少年文化センター久留島武彦文化賞を受ける。 10月、大正9年新潮社刊行の『智と力兄弟の話』をほるぶ出版より複刻刊行。
昭和50年(1975)78歳
10月、館山美術会より功労賞を贈られる。
昭和57年(1982)84歳
3月27日 館山病院にて永眠、遺骨は茂の好きな館山の海に散骨。
 
参考文献 日本児童文学大系14 藤田圭雄編